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我有り故に我思う

2026年03月20日(金)

知事選への取り組みについて

No.245

 知事選に向け、先日、南区の民主府市政をすすめる会の集会が開かれ、僭越ながら、私から「開会の挨拶」をさせて頂きました。その一部を紹介します(方針に係わる部分は、本当は一番訴えたいことなのですが、省いています)。

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開会挨拶          2026/3/11  井上けんじ

○ 総選挙の結果については様々な角度からの評価や分析がありうるが、選挙制度に絞って振り返ってみる。主権在民の立場から、国民の支持政党の比率がそのまま議席の比率に照応、比例配分される方法として、仮に全議席を比例代表制で選ぶとして、今回の比例代表での各党の得票率で、そのまま全議席を配分すると想定すると、今回議席→想定議席は以下の通り。自民315→171、維新36→40、中道49→85、国民28→45、参政15→35、みらい11→31、共産4→19、れいわ1→14、保守0→12、減ゆ連1→7、社民0→6、で自維は211/465の半数以下。仮にA〜E各党が、A党21%、B〜D各党20%、E党19%の得票を得、全選挙区で同じ支持割合だとすると、A党は21%の支持で全議席を独占、79%の国民の声は議席に全く反映されないことになる。歪んだ制度であることは明らか。今回も、この例のような特徴が出た。そこで次のことが言えるのでは。〔閏臈な選挙制度への改正運動が必要。自維の定数削減を許さない運動の強化を。⊆民は37%で、国民世論と国会議席との乖離は明白。高市は「砂上の楼閣」。自民に入れて「反省」している人や、今後の右傾化、軍拡・格差拡大を心配する人たちの藤井支持への、潜在的だが働きかければ顕在化する可能性。現府政は「国言いなり、国の悪政の具体化と地方自治の形骸化」。今回は、戦争と平和、暮らしと営業、実利獲得、の課題が浮上。社会保障、ケア労働、中小企業零細事業者・労働者、原発、北陸新幹線も重大争点に。国保や高校教育、子ども医療費、中小企業支援と融資、労働者施策、等々、市政とも密接な繋がり。「府政が変われば京都市政も変わる」。勿論、国にも影響。自民政治を押し返していく第一歩としての全国的意義。
○ 自主申告運動や春闘の時期。税金で言えば、自民党政府の大企業減税が自治体の減収にも連動、金融課税の優遇制度(株式収入の低税率)も然り。今後の一層の「戦費調達」増税が危惧される。税金は平和と暮らしに使われてこそ「とられ甲斐」。本来、戦費への徴税は違憲。国債濫発はインフレへの道。高市首相の「食料品消費税2年間」は却って混乱を招くだけ。それすら雲散霧消?「国民会議」は「与党PT]と同じでヌエの如し。正規の機関でも何でもない。議会で議論すればいいこと。官房機密費やギフト券問題等々。  
春闘や賃上げとの関係で言えば、最賃や賃上げ中小企業への直接支援こそ府の出番。他県での実績も。かつて、革新自治体と大幅賃上げ(1974春闘)。京都市では不十分ながら補聴器補助。「地方自治」は憲法第8章、最後の方だが、前文の国民主権は府民主権だし、第3章の13条個人の尊厳や25条の「国は…向上・増進に努めなければならない…」等、教育・労働等々の基本的人権擁護は地方自治体にとっても当然。憲法実践と具体化は国だけでなく自治体にとっても責務。25条は「国と自治体は…」と読むべき。公務員の憲法尊重擁護義務は勿論知事にも府職員にも。

○ 「自民への接近」が中道後退の要因のハズ。かつて「社公合意」で社会党が右転落。煮え切らない層もおられるハズ。旧立民やれいわ等支持層の「護憲派」は死んではいない。そこにも働きかけたい。「自民と一緒でいいのか」の声を広げる。「戦争反対」「暮らし守れ」は府民多数の声。ここへ依拠。「左派=革新<民主<平和保守結集」の一環としての知事選挙。共産党と立憲との野党共闘がなくなったからとガッカリには及ばない。「共産と新社会と、市民団体」との共闘としての「民主府市政の会」や「つなぐ京都」との共闘パターンは健在。

 

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2026年02月19日(木)

南区生活と健康を守る会新聞の記事より

No.244

 同会の機関紙のコラム欄に、時々、記事を掲載して頂いています。最近号のものに少し手を加えました。

 昔なら「大砲よりバターを」。今なら「ミサイルより米を」といったところか。「中道」と聞いて、かつての「社公合意」を思い出す。反安保の旗を投げ捨てて社会党が右転落。社共共闘もなくなり、その後、中曽根臨調行革へと続く。一路民営化、補助金カットの福祉切り捨てへ。今にして思えば、昨秋の、公明の政権離脱は、立民を右へ引っ張る布石だった?と見るのは穿ちすぎか。
 かねてより私は、市民と野党の共闘ならぬ、市民と団体と野党の共闘を、と言ってきた。中道が護憲共闘の対象とならなくなった今、かくなる上は、我が生健会も、その一員とするところの、憲法をくらしに生かす「市民と団体・労組と護憲野党の全国的地域的共闘」の発展と展開を期す。

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2026年02月15日(日)

小選挙区制度は廃止を

No.242

 標記のテーマで京都新聞への投書を予定しています。原稿は「未発表のものに限る」とされていますから、そのままではなく、その趣旨だけを、以下、簡単に書きます。
 主権在民の観点から言って民意がそのまま反映される選び方選ばれ方が当然。小選挙区制度は、比較多数党が、得票よりも割合の高い議席を得る仕組み。「金がかかる」「二大政党制へ」「多数乱立は政治の不安定化」等々の主張はとってつけたもの。票は減っても議席は維持したいという多数党の独裁化への道。
 新聞記事では、「選挙制度改正の話しもあったが、今回総選挙の結果をうけ、自民内ではその話は立ち消え」とのことだが、私は自民への支持不支持の立場からものを言っているわけでは決してない。権力者にとっては自らに有利な方法を手放す訳がない、甘すぎると言われるだろうが、私は民主主義の立場からの議論を期待したい。「目的の為には手段を選ばず」という発想は、子どもの頃から、否定的な意味合いで教えられてきた。手段を選ぶ物差しは「主権在民」であろう。
 ちなみに、今回の総選挙で、全議員を比例代表制で選ぶとして、比例代表での各党の得票を全議員数に適用するとすると、各党の議席数は以下の通りになる(括弧内は、今回の小選挙区制を含む実際の議席数)。
 自民171(315)、中道85(49)、維新40(36)、国民45(28)、共産
19(4)、れいわ14(1)、減ゆ連7(1)、参政35(15)、保守12(0)、社民6(0)、みらい31(11)、等々。この数字なら、せめて世論の動向と合致する。自民・維新を合わせても211/465全議席で半数に満たない。
 これらのことから、少なくとも次のことは言えると思う。‐選挙区制廃止・選挙制度の民主的改善を掲げた運動が要る。党派利害ではなく、民主主義運動として。高市内閣は砂上の楼閣にすぎない。いずれ国民世論との乖離・矛盾の顕在化は避けられないであろう。7崖函Ψ崖帆税・格差拡大ストップ、憲法をくらしと外交に生かす、との国民的な運動の活発化が求められる。

 なお、上述の「目的と手段」の問題については、何故戦争が起こるのか起きるのか、との角度から改めて考えてみたいと思っています。即ち、市井で人を傷つければ犯罪なのに(私見では、捕まるからとか刑法に触れるから、等々ではなく、そもそも人の基本的人権と尊厳への侵害であるから)、なぜアメリカのベネズエラやイランへの武力攻撃なら許容?されるのか。されていないハズなのに何故トランプはそのことを肯定しており、何らのとがめや処罰を受けないのか。イスラエルにしても然り。昔、「悪名」という映画で、勝新太郎が「人殺しはいけないのに何故戦争なら英雄なんだ?」との趣旨のセリフを言っていたことを覚えていますが、その通りでしょう。今後のテーマとしたい。

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2025年10月29日(水)

南区生活と健康を守る会機関紙のコラム欄用の記事です。

No.239

 時々、記事掲載の機会を頂いています。一回の要請につき4本ほど書いていますが、編集者の方に選んで頂いています。3本不採用分も含めて、この欄にもアップしておきます。最近のものです。

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●昨秋総選挙といい今夏参院選といい、自民政治を終わらせるチャンスだったのに逃した魚は大きい。「野党」への国民の支持は、自民政治への批判の反映のハズ。だったらこれら「野党」は小異を捨て自民下野への大同につくべきであった。とはいえ、「野党」とは思われながら政策的には与党丸出しの{ゆ党」と言うかエセ野党では、所詮、期待すること自体が甘いのか。「幽霊の正体見たり」。エセ野党が自民延命を助けた、というより、ハナから野党でも何でもなかったということが、今回、明らかになったと言うべきだろう。

●トランプと高市といえば正に最悪。復古主義・歴史修正主義とアメリカ言いなり、尻尾を振って、親分子分よろしく一層の軍備大拡大と格差拡大、拝外主義。自己責任と福祉切り捨て、労働基準法改悪。強きを助け弱きをくじく。自らも金権疑惑。イスラエルを応援し日本に軍事基地を押しつけるトランプをノーベル平和賞推薦とは、最早ブラックジョークか。目が点になる、開いた口がふさがらないとはこのことか。いかに卑屈・言いなりであっても、そのこと自体を本人が自覚できない現状は、シェークスピア以上の悲劇と言うべきか。

●薬を飲むために口に含んだその水だけを飲んでしまい肝心の薬は口に残ったまま。我ながら何のことやら。水は薬飲の手段であるはずなのにその手段だけが本来の目的を押しのける。昨今の通信技術の進展や宣伝の氾濫は、あくまでも手段。内容が本来。「ウソも百回言えば…」とは、かのナチスの宣伝。百回言う、ことは手段なのに、じっくりものを考える力を奪われているうちに、ウソが本当に。福祉や消費税減税の時は「お金がない」。一方、湯水の如く軍備拡大や過度な大企業減税は伝えない。内容の吟味と検討、対話と討論、学習が要る。その為の仲間が居る。

●中学校給食がやっと実現と思いきや、塔南高校跡地の公園をつぶして大型給食工場を建てるとの市の方針。公園廃止撤回を求める裁判と、給食は原則自校方式で、との運動が広がっている。‖膩森場か自校か、公設公営か民間大企業への丸投げか、論点は二つあるはずなのに、市はハナから、工場+民間化。「廃止」は公園自体が要らないからではなく、専ら工場用地の為で「始めに工場ありき」。では何の為に工場か。即ち、教育という公務を民間の営利対象に。大企業応援、「民間化ありき」がコトの本質。福祉切り捨て等と共通、一連の市の方針。

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2025年10月25日(土)

幽霊の正体見たり…

No.238

 中学校給食がやっと実現と思いきや、塔南高校跡地の公園をつぶして大型給食工場を建てるとの市の方針。公園廃止撤回を求める裁判と、給食は原則自校方式で、との運動が広がっている。それにしても、長年背を向けてきたのに、'23年1月にやっと実施の方向を打ち出した途端に、「センター化」。市の公園を、塔南高校用地として市から借りてきていた市教委が、その高校移転に伴い、借用を終えて返却したのかしていないままなのか、それも曖昧にしたまま、何と「公園廃止」について説明。市長部局はその説明会に誰も出席せず。市教委「代替公園を確保して廃止」と言いながら(「確保」は建設局の仕事なのに)、その2日後には文化市民局が一方的に「廃止」を決定。翌年1月には都市計画局が「3月の都市計画審議会に廃止議案を提案予定。提案理由は、ヾに廃止しているから、給食センター用地に充てるから。ところがその審議会では、市も委員長も「センターは関係ない」の一点張り。廃止には代替公園が要件なのに、2年経った今も「確保」されないまま。そもそも伏見では整備されたとしても遠すぎて代替にはなり得ない。要件を満たしておらず廃止は違法。とにかく経過は疑問だらけ。
 振り返るに、そもそも市も市教委も「公園自体が不必要」とは一言も言ってはいない。「はじめにセンターありき」が公園廃止の本質。そこでもう一歩、経過を遡ると、既に'21年、市は「塔南高校移転後の跡地について、民間活用も含めて検討」。そこで思うに、給食の提供・調理の方式については、誰が賄うかということも含めて、‖膩慎訖工場か、自校又は親子か、公設公営か民間大企業への委託・丸投げか、との二つの論点があると思えるが、京都市にとっては、,梁膩森場と△量唄峇歸蠅欧箸蓮▲魯覆らセットになっている。「廃止」は公園自体が要らないからではなく、専ら給食工場用地の為、即ち市にとっては民間大企業の営利事業の為に用地を提供、つまり「はじめに工場ありき」に留まらず、では何の為の工場か何の為に工場かと考えた場合、「はじめに民間化ありき」がコトの本質ではないか。給食という教育の一環たる事業をいやしくも民間企業の営利の対象にするということが、自治体の本来のあり方と言えるのか。
 昨今、住民の福祉増進をめざすべき公務が、民間大企業の事業対象に提供されようとする事例が各分野で進められているが、今回のセンター化と公園廃止も、とどのつまりはこういう流れの一環だと考えれば、この間の市の強引な進め方の謎も一連の疑問も、すっかり氷解する。「正体見たり。それは公務の民間化方針から始まり、今も継続されている」。
 公の事業として公が担い、且つ自校又は親子で、併せて公園は公園として存続させ市民の憩いの場としてまた広域避難場所として活かす為にも先ず「廃止」の取消し撤回を。これらの運動は、自己責任押しつけの社会保障改悪後退や国民負担増を押しつける庶民増税等々に対抗する運動、公を取り戻す運動との連帯が可能だし、また広く、今日の新自由主義路線への批判と対抗の諸運動の一翼を担うものである。
 しかし当面は、あれこれのゴタクは省略し、今回の市の公園廃止は、「代替公園設置」との廃止要件を満たしておらず違法である、との一点に絞って、裁判での「廃止取消」判決を目指して力を尽くしたい。

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